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オフ会(お江戸ウォーキング) 第一期企画 「忠臣蔵の世界」**

第3回 柳沢吉保と吉良上野介


本日のお題 -------------------- 本日の道順
       本日のお題 --- today's theme
 元禄14(1702)年3月14日江戸城松の大廊下。 
 播州赤穂浅野内匠頭長矩が、高家筆頭吉良上野介義央を斬りつけた赤穂事件は、浅野の即日切腹・領地お取上お家断絶で幕を閉じたように思えた。
しかし――。
 赤穂に仕えていた藩士達は当時二百数十名。藩論は揺れた。恭順開城か、籠城戦闘か、殉死自決か。やがて4月19日、傍目には城収使龍野の脇坂淡路守一行に対し、大手門は何の抵抗もなく開かれた。傍目には恭順の姿勢、他のお取り潰し藩と何ら変わりのない収城の光景である。

 「吉良仇討ち」という、今一つの決断を隠したまま……。

 幕府から見た赤穂事件  
 殿中にて鯉口三寸切れば切腹――
 浅野内匠頭は死を覚悟してその禁を犯したと言える。しかし吉良上野介を殺害すること叶わず、喧嘩両成敗の原則に反して吉良に対するお咎めすらも無かった。城中での刃傷事件としては異例な裁断を行った幕府の見解とは、将軍の思いとは如何様であったか。

  側用人・柳沢吉保から事の次第を告げられた天下の将軍・徳川綱吉は激怒した。「大事の勅使饗応の日の失態、お廊下を血で汚された」と。即断即決よりも今一度くらいの詮議はした方がいいのではないか、そんな周囲の意見に耳も貸さない。むしろ、それら意見も真に抗議を申し立てるのではなく、あくまで苦言の一つ、結局は将軍の決議に落ち着いてしまうのだ。綱吉の君主権限の大きさがそこに現れていた。

 「余は生まれながらの将軍である」そう公言した三代家光と違って、五代綱吉は覇権争いに絶えず気を揉む生涯であった。家光の四男として生まれた綱吉には、元服まで健やかに育った兄が二人いた。世子・家綱、そして二つ年上の綱重である。父も長兄・家綱も弟二人を平等に扱い、寛文元年(1661)閏八月九日、綱重は甲府に、綱吉は館林に、それぞれ同分二十五万石を与えた。綱重18歳、綱吉16歳。
 綱重と綱吉は、待遇もほぼ同格であったことから、兄弟としては反目する間柄ではなかったと言われている。問題はその母たちだった。綱重生母のおなつの方は京都の町人弥一郎の娘、お玉の方は賀茂の神職を父とするがそれは母親の再婚先で、実父は京都堀川通り西藪町八百屋仁左衛門。二人は似たような境遇に育ち、年もさして変わらず、それ故家光の寵愛を争っていつも火花を散らしていた。
 もしも家綱に嫡男が生まれていれば、次兄・綱重が病没することがなければ、綱吉は館林の大名のまま終わっていた。だが、それは起こった。

 お玉の方(家光病没後出家、桂昌院)にとってそれはまさに、天から舞い降りた神仏の贈り物のような心持ちがした。我が子が、八百屋の娘である自分の産んだ子が、天下の大将軍におなりになるかもしれない――期待は大いに膨らむ。
 当時下馬将軍と呼ばれ権力を握っていた大老・酒井忠清は鎌倉の故事を持ち出して有栖川宮擁立をはかるが、老中堀田正俊の強い反対にあって失敗。こうして綱吉はめでたく五代将軍となり、酒井は失脚、堀田が台頭する。これら幸運に恵まれ、元々信心深かった桂昌院はさらに神仏への傾倒を深めていった。それは、いつ脅かされるかも知れない権力への執着であり、桂昌院の焦りでもある。月日を経るごと神仏観が狂言的になっていく母に、綱吉はただ従い、生涯彼女に頭の上がることはなかった。
 それでも初期は「天和の治」と称される政治手腕を発揮していた綱吉だったが、堀田正俊の刺殺事件によって側用人制が導入されたことで、やがて信頼する家臣へのあまりの贔屓、またのちに発布される「生類哀れみの令」を経て、次第に「犬公方」と揶揄される悪政に変わっていく。元禄改鋳によって一気にバブルになった経済、熟れすぎた元禄文化、異常な法令による民衆統制。それでいて周囲は皆権勢にすがろうとする者ばかりで、命を掛けての嘆願、主君の諫めを行う者もいない。綱吉の専制政治はまさに絶頂を極めていた。

  「母上に、叙位を」そんな綱吉の母を思う心から、元禄13年末、吉良上野介を京都に送った。名目は勅使への年賀の挨拶。吉良の努力もあって、「どうか母に地位と誉まれを」という綱吉の願いが、ようやく聞き届けられようかという時期に入っていた。此度の返礼の使節接待には内密にその方面の話もあるであろう。綱吉は朝廷からの朝賀返礼の使節を、期待に胸膨らませて待っていた。饗応役には伊達と浅野。浅野は一度役に就いた経験もあるし、万事穏やかに運ぶであろう……そんな考えが綱吉にもあったかもしれない。
 そして起こった、松の廊下刃傷。
 「何と斯様な失態にて将軍の顔に泥を塗りおるか!」綱吉の怒りはすさまじいものだった。誰も、恐れ多い将軍のご意向に背く者はない。まして実母桂昌院への叙位を求めて交渉に当たらせていた吉良に咎めを与えるなど、進言したところでできようはずもない。五万石の小国一つ、消えたところで大差あるまい、今までも改易は多くあったこと。そう納得した。これが一年半の時を経て江戸を揺るがす大事件になろうとは、誰も想像することはできなかった。赤穂の討ち入りを知った綱吉は大いに動揺し、自分の決断を悔いたとされているが、実際のところは思いもかけぬ反乱に相当の焦りを抱いたことだろう。

 綱吉はその後嫡子の産まれることもなく、64歳でこの世を去る。嗣いだのは、皮肉にも次兄・綱重の遺子で若年にして当時将軍になれなかった、甲府藩主・徳川綱豊(家宣)。長きに渡る利権争いの末の就任だった。




 柳沢吉保と徳川綱吉、そして吉良上野介  
 18歳で当時館林藩主だったのちの征夷大将軍・徳川綱吉の小姓となった柳沢吉保はその寵愛を受け、綱吉の将軍就任後は出世を重ねて側用人という地位に上り詰める。
 その後1万2千石の大名になったのを皮切りに度々加増されて、ついには甲府藩15万石を与えられるまでになった。甲府はそれまで徳川一族が支配してきた領地でありこれは異例のことであった。また吉保の「吉」の字は綱吉から戴いたもの、さらには徳川氏の旧姓である松平の姓を名乗ることも許されている。
 綱吉の寵愛も異常で、綱吉は柳沢邸に58回も出かけていったと言われている。噂ではそのうちに、柳沢の愛人・染子に手を付けたので、柳沢の一子吉里は実は御落胤であるという。柳沢が相次ぐ石高の加増になったのもそのため、そしてやがて綱吉がただ一人の実子吉里を世継ぎにしようと考えたので、それを阻止するために正室鷹司信子が綱吉を刺し殺して自らも自害した、などという話までまことしやかに囁かれた。真偽のほどは定かでない。綱吉の死には色々と曰くがある。

 刃傷事件の起きた元禄時代、柳沢は大老に匹敵するほどの権勢を誇っていた。幕閣の意見をはね除け綱吉の意を酌んで浅野に切腹を命じたのも柳沢である。柳沢と吉良には密接な関係があった。それというのも、綱吉の母・桂昌院が女性として最高位の従一位に叙せられた時、柳沢の采配の元、朝廷へ莫大な贈り物をしたという背景がある。これに吉良は協力をしていた。赤穂事件のそもそもの発端、勅使饗応もそのための根回し。吉良が京へ上ったのは贈位の目論見があったからだった。そのため両者の間は昵懇になり、赤穂事件で当初お咎めがなかったのはそのせいではないかとも囁かれた。もしここで吉良を討ってしまえば、桂昌院贈位の計画は泡と消える。結局吉良は討たれることになるが、それより前の元禄15年三月、桂昌院は無事従一位に叙せられた。将軍権威が命令を絶対化させ、幕府の沙汰を贔屓目にさせたとも言えなくはない。




       本日の道順 --- today's course
JR駒込駅
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@六義園
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A藤堂家棟門
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B西福寺
C染井稲荷神社
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D染井霊園
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E本妙寺
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F巣鴨地蔵通り商店街
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G高岩寺
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H真性寺
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JR巣鴨駅

☆ 今回ご参加の皆様と --- 六義園にて撮影 ☆
 一年でもっとも晴れの確率が高い・・・と言われる文化の日。なかなか晴天に恵まれなかったお江戸ウォーキングにようやく晴れの兆しが現れました。今回は、幕府側・吉良側から見た赤穂事件についてと、東京の下町巣鴨のご案内をさせて頂きました。

 撮影盛之輔につき、盛之輔は入っておりません。あと、最後に参加のT先輩も残念ながら入っておりません。ので、おまけ写真を高岩寺のところに貼っておきます★
    @ 六義園

↑染井門。4月の桜の次期にはこの門を特別開放アリ

 入園料  中学生以上300円、60歳以上半額
 開園時間 午前9時〜午後5時
        (入園は午後4時30分まで)
 休園日 年末・年始(12/29〜1/1)
 六義園は、元禄8年(1695)五代将軍・徳川綱吉より柳沢吉保が下屋敷として与えられた駒込の地に、柳沢吉保自ら設計・指揮して作られました。平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけた「回遊式築山泉水庭園」です。完成した頃が丁度赤穂事件の時期と重なっています。

 名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の詩の六義、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来するそうです。明治時代、三菱創設の岩崎弥太郎所有となった六義園は、昭和13年東京市に寄付されて一般公開。昭和28年に国の特別名勝に指定されました。四季折々の草木や花々、都会の中にある大庭園の景色は圧巻です。

↑庭園は一瞬東京であることを忘れます。庭園内には茶屋があり、お抹茶を戴けます。
    A 藤堂家棟門

↑現在は個人宅さまの門になっています

 染井の里は、明暦3年(1657)の江戸市中を焼いた振袖火事の後、大名が市中とは別に下屋敷を置いたところです。六義園は柳沢家、染井霊園は藤堂家、建部家がそれぞれ屋敷を構えていました。
 染井通りの南側、現在の駒込四・五丁目のほぼ全域は、かつて伊勢の津藩主藤堂家の下屋敷・抱え地でした。藤堂家は戦国時代の武将・藤堂高虎を先祖とする安濃津藩主で、下屋敷はおよそ六万坪と言われています。この棟門は下屋敷の裏門にあたり、往時の大邸宅をしのぶ遺構として、通りの反対側に移築されたものです。藤堂家には当時、六義園と並んで広大な庭園を構えていました。表門は東大赤門に匹敵する程立派な門だったそうです。

    B 西福寺


↑記憶が正しければ確か中央が政武さんの墓

 駒込・巣鴨地域は江戸の西北郊に位置し、日光御成街道・中山道の主要街道に沿って町並が伸びていました。近くに藤堂家下屋敷や六義園などの大名屋敷があったため、幕末の切絵図に「此辺染井村植木屋多シ」と記されるなど、この地は文京区の本駒込・千石地域を含めて一大園芸地帯を形成していきます。


 西福寺は、創建年は不明ですが、豊臣時代開かれた真言宗の寺で、江戸時代には藤堂家の祈願寺でした。境内には江戸一番の植木職人と言われた伊藤伊兵衛の墓もあり、また1655年(明暦元)の六地蔵、1670年(寛文10)の如意輪観音、染井吉野の里碑があります。



【伊藤伊兵衛】
 江戸一番の植木屋として名高く代々伊兵衛を名乗りますが、中でもに三之烝とその子政武が有名です。三之烝は「きりしま屋伊兵衛」と称してツツジ・サツキを栽培し、江戸市中に広めました。また政武は楓・紅葉の育成につとめ、「楓葉軒」と号します。政武は八代将軍吉宗に大変可愛がられ、江戸城内の庭師も務めた人物です。



↑門前の染井通りはすべて桜で、四月になると
  花見客が訪れるスポットです
    C 染井稲荷神社
 社殿は丁度赤穂事件の起きた頃、三百年以上前に建てられたものと言われています。旧上駒込村字染井の鎮守で、江戸時代は西福寺が別当でした。
 本殿に「俵藤太むかで退治」「韓信のまたくぐり」の絵馬があります。震災や戦災でも火災を免れたため、火伏せの神様として信仰されています。

    D 染井霊園


★ 他、岡倉天心、高村光太郎、二葉亭四迷らの
   墓があります。
 ここは当初ルートには入っていなかったのですが、有名人の墓も多いということで急遽立ち寄ることになりました。
 染井霊園は桜の名所としても名高く、都立霊園としては規模が最小でありながら非常に多くの著名人の墓があります。染井吉野発祥の地とも言われているところです。

 今回の収穫は松平定敬(さだあき)公のお墓を見つけたこと!!定敬公は幕末桑名藩主であり、最後の京都所司代であり、京都守護職松平容保の同母実弟でもあります。盛之輔は会津大好きなので、染井霊園にお墓があるのは知っていましたが、実際に見つけて大騒ぎしてしまいました・・・。
 
    E 本妙寺

↑門前の様子

↑江戸末期の武道家・千葉周作の墓


この他、明暦の大火(振袖火事)供養塔、関宿藩主・久世大和守歴代の墓、本因坊歴代の墓などがあります。
 染井霊園にルート変更したため、急遽このお寺にも立ち寄りました。

 正式名称、徳栄山總持院 本妙寺。「徳栄」はその名の通り、徳川家の繁栄を願った名称です。徳川家に仕えた久世広宣、大久保忠勝、大久保康忠、大久保忠俊、阿部忠政等が、元亀2年(1572)家康の遠州曳馬(現在の浜松市)入城に際し、智存院日慶上人に頼み同地に創立されたのが始まりでした。
 天正18年(1590)、家康が関東奉行として江戸入城すると、本妙寺も共に江戸へ移りました。当初は江戸城清水御門内の礫川町へ移建されましたが、城域拡張に伴い飯田町、牛込御門内、小石川へと移動させられています。
 寛永13年(1636)出火のため伽藍が全焼。その後、久世大和守広之の尽力により本郷丸山に替地をうけ、約6000坪の境内に九間四面の本堂や千仏堂、客殿、書院、庫裡、鐘楼、 山門等完備し、塔頭寺院も十二と七堂伽藍の整った大寺院として復興しました。しかし僅か数年後の明暦3年(1657)正月18日の明暦の大火によって悉く焼失します。が、大火から3年後に客殿・庫裏を、6年後には本堂を復興。明治43年(1910)現在地へ移転するまで本郷丸山にありました。現在も文京区本郷5丁目付近に『本妙寺坂』なる地名が残されています。

参考 : 本妙寺公式ホームページ
http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/



↑名奉行・遠山金四郎の墓
    F 巣鴨地蔵通り商店街
 通称「おばあちゃんの原宿」。この超有名商店街通りは、かつての中仙道にあたります。江戸時代真性寺の門前町として栄え、現在も参拝客で賑わっています。和菓子店を始め夫人衣料店・食堂が軒を並べる昔ながらの商店街です。

    G 高岩寺

↑門前の様子


↑というわけで、早速さすってみるT先輩。
 「とげぬき地蔵尊」として有名な高岩寺は、明治24年(1891)に下谷から移転してきた曹洞宗の寺です。毎月4の日に縁日を設けたことで露店が集まり、参道沿いに門前町が形成されました。本尊・延命地蔵菩薩は病の「とげ」を取り除いてくれるとされ、「とげぬき地蔵」と呼ばれて信仰を集めています。

【とげぬき地蔵の由来】
 その昔、ある男の妻が重い病にかかりました。男は日頃から信仰していた地蔵尊にお祈りしたところ、夢枕に僧が立って「地蔵尊の御影を一万体作り川に浮かべよ」と言います。その通りにすると、たちまちに妻の病気は治り、またその後その話を聞いたある僧が御影を分けてもらって針を飲み込み苦しむ女に飲ませたところ、たちどころに吐き出したそうです。以来地蔵尊の御影を飲んで祈願すれば病気が治ると言われ、江戸市中で有名となりました。今でも高岩寺では御影を分けています。


 境内には明暦3年(1657)の大火で妻を亡くした職人が奉納したと伝えられる「洗い観音」があります。自分の病気の部分と同じ部分を洗い流すと病気が治ると言われているそうです。

  洗い観音はいつも行列です。盛之輔は二度行きましたがどちらも頭思いっきりさすってきました・・・(汗)
    H 真性寺

↑この左側に見えているのが地蔵さまです。
  「地蔵通り商店街」の「地蔵」はこのお地蔵さま
  ですのでお間違えの無いように
 創建年不詳。真言宗のお寺です。正徳4年(1714)僧・正元が建立した江戸六地蔵の一つが安置されています。この地蔵は1丈6尺(4m84cm)という大きなもの。毎年6月24日には江戸六地蔵の百万遍念仏供養が行われています。

【六地蔵】
 品川寺(東海道・現品川区)
 東禅寺(奥州街道・現台東区)
 太宗寺(甲州街道・現新宿区)
 霊厳寺(千葉街道・現江東区)
 永代寺(水戸街道・現江東区/現存せず
 真性寺(中仙道・現豊島区)




 ここから先は、時間の都合上立ち寄れなかった巣鴨の史跡です。
 お時間ある時にでもお立ち寄り下さい。

    I 巣鴨庚申塚
 この付近は江戸時代、中仙道の立場として賑わったところです。立場とは旅人や人夫が休息をした場所で、茶店などが出ていました。

 文亀2年(1502)建立の庚申塔は高さ8尺の巨大なものでしたが、明暦3年(1657)の大火後に倒壊してしまいます。同年再建されたとされる塔が、現在祠内に安置されています。
 庚申塔は、庚申様(青面金剛)を信仰する人々が建てた塚のことです。庚申信仰とは、庚申の夜に眠ると、人の体内にいる三匹の虫が抜け出し天帝にその人の罪を告げるので早死にするという道教の教えで、その夜人々は夜を徹して宴などを開きました。江戸時代にそれらは庶民の間にも広がり、青面金剛(神道では猿田彦)をまつって徹夜する「庚申待ち」という行事が生まれました。庚申の年(60年に一度)に供養のため建てられたのが、庚申塔です。

    J 妙行寺

↑門前の様子

↑瑤泉院の供養塔
 鶴屋南北の『東海道四谷怪談』で有名、お岩の墓があるお寺です。元々は四谷にありましたが、明治42年(1909)にこの地に移転しました。実話では、寛永10年妙行寺の檀家に婿入りした伊右衛門がお岩と結婚。まもなく夫の伊右衛門は組頭の娘と恋仲になり、妻のお岩を虐待します。お岩は36才という若さで亡くなり、その怨念に悩まされた伊右衛門も2年後に死んでしまいました。妙行寺がお岩さまを供養した後は、しばらく続いた妖怪騒ぎもぴたりと収まったといいます。

 またこの寺墓地には、浅野内匠頭の祖母高光院や、内匠頭の弟・浅野大学夫人蓮光院の墓があります。寺には内匠頭夫人・瑤泉院が永代供養料を納めた寄付状が残されているといい、墓地には瑤泉院の供養塔が立っています。

** 携帯カメラの画像のため、画質が悪いです。
   ご了承下さい。



 以上、お疲れさまでした〜(・_・)(._.)



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