| 午後四時頃、浅野を載せた駕籠は愛宕下の田村右京大夫邸に到着する。江戸城で見せた鬼の形相は既に無い。家人には、「持病の痞が起こり、殿中もわきまえず不謹慎なことをした」と漏らしている。この口述を記した『江赤見聞記』は、奇しくものちに吉良邸に討ち入ったうちの一人、富森助右衛門の妻・喜世の父親・菅治左衛門(すが
じざえもん)であった。(富森夫婦は歌舞伎『元禄忠臣蔵』でもお馴染み) 田村家では急遽改造し座敷牢のような作りにした中庭に面する部屋へ浅野を通した。それは厠まで部屋の中に設置されていて、まさか田村もこの一日で自分の役目が終わってしまうとは思っていなかったのだろう。寝間着や布団を用意し、藩士には浅野との受け答えに関する申し合わせまで配っていた。長期滞在を見越してのことである。しかし浅野がその褥に身を横たえることはついぞなかった。 田村が浅野の対応に追われていた頃―いや、既に浅野が江戸城を出て間もない頃、幕府は浅野の処遇を決定していた。即ち、即日切腹。申渡しの死者は浅野到着の僅か一時間後にやって来た。もはや浅野に弁解の余地は認められず、その時は刻一刻と迫っていく。田村家も「今日中に」という達しにそれは驚いたことだろう。何より場所の準備がない。結局浅野の拘束されていた部屋の前、つまり中庭に設けた。筵を敷きつめ、畳・毛氈を置く。屋根も無い庭先の切腹など、五万石の大名に対する扱いとは到底思えないが、幕府が浅野に求めたのは罪人としての死罪である切腹だったのである。冷遇の理由すら一つとして分からぬままの、死罪であった。 切腹の場には浅野家臣の誰一人も居合わせない。美談に語られる片岡源五右衛門の暇乞いも、辞世「春の名残をいかにとかせん」もすべてはのちの作り話。孤独の中、浅野は冷たく固い小刀にすっと手を伸ばした。周囲が気遣い「死にこそはせずまでも、吉良は老齢、傷は深手」と言い合わせた偽りの言葉、ただそれだけを信じて。 庭にひらひらと舞う桜花の雨が、浅野の目には映っただろうか。 |
| 江戸から遠く、播州赤穂。城の裏には瀬戸内の海が広がる、塩田のある国。のどかな赤穂城下に、突如早駕籠の足音が響いたのは、3月19日午前5時半頃のこと。駕籠は二つ。駕籠舁も、乗っていた男たちも、髪は逆立ち体から湯気が上り、呼吸は乱れて声も出ないといった様子であった。使者は14日事件発生後の午後二時頃に江戸を発った、馬廻・早見藤左衛門と中小姓・萱野三平。通常約二週間をかけて旅する東海道・山陽道の距離を、僅か四日半で赤穂に辿り着いたのだった。 「恐れ、ながら、申し上げますっ・・・」 息も絶え絶えの彼らがもたらしたのは、内匠頭実弟で嗣子でもある浅野大学がしたためた一通の口上書。浅野が江戸城において刃傷に及んだこと。そしてその相手は吉良上野介義央であり、安否は一切不明であることを伝えていた。国家老・大石内蔵助良雄は、急ぎ城に向かい、藩士全員の登城を命じた。混乱する家臣二百数十名を諫めて大石は言う。 「追って知らせを待て。事の一々が分かるまで乱してはならぬ」 夜になってもたらされた、使者・原惣右衛門と大石瀬左衛門による知らせは、【浅野内匠頭切腹】。これで、もはや赤穂藩のお取り潰しは免れざるものになった。しかし最も知りたい刃傷事件の理由については何一つ情報が入ってこない。城の明け渡し準備だけが、着々と進んでいくのだった。 開城か、城を枕に切腹もしくは籠城か、はたまた吉良邸への討ち入りか。どう見ても理不尽な幕府の裁断、そして仇・吉良はまだ生きているという事実。藩士内の意見は揉め、先行きの不安に家財をまとめて逃げ出す者も現れた。退去に際しての事務的処理を決める評定は、開かれる度に人数が減っていった。そして、明け渡しの4月19日を迎える。 明け渡し後、浪人となった元浅野家中は方々に散らばる。赤穂に留まった者、浅野飛地領だった播州加東郡に移る者、他京都・山科・伏見、大坂奈良、そして江戸。散り散りになった浪士達が、もはや再び結集することはないように思われた。ましてあの赤穂開城に最大の尽力をした大石などは放蕩三昧、「うき様」とあだ名されては島原・祇園で遊び歩いていたのだから。 気付けば殿中の一件より1年が過ぎていた。だがこの時、既に吉良の新しい屋敷(本所)の絵図面は大石方の手にあったことを、誰が察知していただろう。 討ち入りの決定は、浅野大学のお預けが決まった同年七月。運命の日まで、四ヶ月と半分を数える――。 |
| JR新橋駅烏森口(集合) ↓ @烏森神社 ↓ A日比谷神社 ↓ B塩竃神社 ↓ C浅野内匠頭切腹地跡 ↓ D愛宕神社 ↓ E興昭院 ↓ F栄閑院 ↓ G仙石伯耆守邸跡 ↓ H金刀比羅宮 ↓ I虎ノ門 ↓ 東京メトロ虎ノ門駅 |
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