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オフ会(お江戸ウォーキング) 第一期企画 「忠臣蔵の世界」**

第2回 無念!浅野内匠頭切腹、浪士達の決意


本日のお題 -------------------- 本日の道順
       本日のお題 --- today's theme
 時は元禄14年(1701)、江戸。

 松の大廊下において吉良上野介に斬りかかった浅野内匠頭長矩は、殿中抜刀の咎により身柄を拘束された。詮議もまともに行われぬまま、事件の二時間後には奏者番・田村右京大夫の使い総員75名が登城し、浅野の身柄は不浄門・平川門から城外に出される。大紋姿のままの浅野の駕籠には施錠がなされた上、その上から網をかけられていた。

 途中、当時の吉良邸の横を通り過ぎる。邸内の吉良と駕籠の内の浅野。運命はもはや、二人だけのものではなくなっていた。

 浅野内匠頭切腹  
 午後四時頃、浅野を載せた駕籠は愛宕下の田村右京大夫邸に到着する。江戸城で見せた鬼の形相は既に無い。家人には、「持病の痞が起こり、殿中もわきまえず不謹慎なことをした」と漏らしている。この口述を記した『江赤見聞記』は、奇しくものちに吉良邸に討ち入ったうちの一人、富森助右衛門の妻・喜世の父親・菅治左衛門(すが じざえもん)であった。(富森夫婦は歌舞伎『元禄忠臣蔵』でもお馴染み)
 田村家では急遽改造し座敷牢のような作りにした中庭に面する部屋へ浅野を通した。それは厠まで部屋の中に設置されていて、まさか田村もこの一日で自分の役目が終わってしまうとは思っていなかったのだろう。寝間着や布団を用意し、藩士には浅野との受け答えに関する申し合わせまで配っていた。長期滞在を見越してのことである。しかし浅野がその褥に身を横たえることはついぞなかった。

 田村が浅野の対応に追われていた頃―いや、既に浅野が江戸城を出て間もない頃、幕府は浅野の処遇を決定していた。即ち、即日切腹。申渡しの死者は浅野到着の僅か一時間後にやって来た。もはや浅野に弁解の余地は認められず、その時は刻一刻と迫っていく。田村家も「今日中に」という達しにそれは驚いたことだろう。何より場所の準備がない。結局浅野の拘束されていた部屋の前、つまり中庭に設けた。筵を敷きつめ、畳・毛氈を置く。屋根も無い庭先の切腹など、五万石の大名に対する扱いとは到底思えないが、幕府が浅野に求めたのは罪人としての死罪である切腹だったのである。冷遇の理由すら一つとして分からぬままの、死罪であった。
 切腹の場には浅野家臣の誰一人も居合わせない。美談に語られる片岡源五右衛門の暇乞いも、辞世「春の名残をいかにとかせん」もすべてはのちの作り話。孤独の中、浅野は冷たく固い小刀にすっと手を伸ばした。周囲が気遣い「死にこそはせずまでも、吉良は老齢、傷は深手」と言い合わせた偽りの言葉、ただそれだけを信じて。

  庭にひらひらと舞う桜花の雨が、浅野の目には映っただろうか。




 悲報、到来  
 江戸から遠く、播州赤穂。城の裏には瀬戸内の海が広がる、塩田のある国。のどかな赤穂城下に、突如早駕籠の足音が響いたのは、3月19日午前5時半頃のこと。駕籠は二つ。駕籠舁も、乗っていた男たちも、髪は逆立ち体から湯気が上り、呼吸は乱れて声も出ないといった様子であった。使者は14日事件発生後の午後二時頃に江戸を発った、馬廻・早見藤左衛門と中小姓・萱野三平。通常約二週間をかけて旅する東海道・山陽道の距離を、僅か四日半で赤穂に辿り着いたのだった。

「恐れ、ながら、申し上げますっ・・・」

 息も絶え絶えの彼らがもたらしたのは、内匠頭実弟で嗣子でもある浅野大学がしたためた一通の口上書。浅野が江戸城において刃傷に及んだこと。そしてその相手は吉良上野介義央であり、安否は一切不明であることを伝えていた。国家老・大石内蔵助良雄は、急ぎ城に向かい、藩士全員の登城を命じた。混乱する家臣二百数十名を諫めて大石は言う。

「追って知らせを待て。事の一々が分かるまで乱してはならぬ」

 夜になってもたらされた、使者・原惣右衛門と大石瀬左衛門による知らせは、【浅野内匠頭切腹】。これで、もはや赤穂藩のお取り潰しは免れざるものになった。しかし最も知りたい刃傷事件の理由については何一つ情報が入ってこない。城の明け渡し準備だけが、着々と進んでいくのだった。
 開城か、城を枕に切腹もしくは籠城か、はたまた吉良邸への討ち入りか。どう見ても理不尽な幕府の裁断、そして仇・吉良はまだ生きているという事実。藩士内の意見は揉め、先行きの不安に家財をまとめて逃げ出す者も現れた。退去に際しての事務的処理を決める評定は、開かれる度に人数が減っていった。そして、明け渡しの4月19日を迎える。

  明け渡し後、浪人となった元浅野家中は方々に散らばる。赤穂に留まった者、浅野飛地領だった播州加東郡に移る者、他京都・山科・伏見、大坂奈良、そして江戸。散り散りになった浪士達が、もはや再び結集することはないように思われた。ましてあの赤穂開城に最大の尽力をした大石などは放蕩三昧、「うき様」とあだ名されては島原・祇園で遊び歩いていたのだから。

 気付けば殿中の一件より1年が過ぎていた。だがこの時、既に吉良の新しい屋敷(本所)の絵図面は大石方の手にあったことを、誰が察知していただろう。

 討ち入りの決定は、浅野大学のお預けが決まった同年七月。運命の日まで、四ヶ月と半分を数える――。




       本日の道順 --- today's course
JR新橋駅烏森口(集合)
 ↓
@烏森神社
 ↓
A日比谷神社
 ↓
B塩竃神社
 ↓
C浅野内匠頭切腹地跡
 ↓
D愛宕神社
 ↓
E興昭院
 ↓
F栄閑院
 ↓
G仙石伯耆守邸跡
 ↓
H金刀比羅宮
 ↓
I虎ノ門
 ↓
東京メトロ虎ノ門駅

☆ 今回ご参加の皆様と --- 浅野内匠頭切腹跡で記念撮影 ☆
↑カメラマン盛之輔なので、右隅にちょっと主張。誰だか分からない・・・;

 新橋駅烏森口に集合後、皆でぞろぞろ連なって歩きました。ちょっと人数少なめでしたが、楽しい一時を過ごすことが出来ました★ありがとうございました!
 このあとはまたまた懇親会でした〜。
 雨なのに最後までお付き合い頂いて本当に感謝・感謝です。新橋〜虎ノ門なんて、史跡のイメージとはまったくかけ離れていましたが、これだけ色々あるんですね。皆さんもお仕事や授業の合間に立ち寄ってみてはいかがですか?
    @ 烏森神社

↑通り一本隔てただけなのに、閑静な場所です。
 現在の社殿は近代建築風で昭和46年(1971)竣工。
 駅前にひっそりとたたずむ神社。新橋付近で有名な大祭(毎年五月開催)は、ここ烏森神社と、次に向かう日比谷神社で交互に隔年ずつ開催されます。

 平安時代の天慶三年(西暦940)に、東国で平将門が乱を起こした時、むかで退治の説話で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を与えました。その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現れて、神烏の群がる所が霊地だと告げます。そこで桜田村の森まできたところ、夢想のごとく烏が森に群がっていたので、そこに社頭を造営した、というのが烏森稲荷の起こりと言われています。(案内板より)
 江戸幕府が開かれる以前、火事によって神社は焼失。一時大名屋敷が建てられたのですが、不幸が次々とその家を襲ったため調べたところ、屋敷のあるところが古社地であることが分かり、すぐさま再興されたという言い伝えが残っているそうです。

 烏森神社にちなんで、明治以降昭和七年までは町名として使われていたそうですが、その後現地名の新橋に改められました。今では新橋駅の烏森口としてその名をとどめています。
    A 日比谷神社
 新橋にあるのに「日比谷」なのは、もともと江戸城の日比谷門内(今の日比谷公園辺り)にあったからだそうです。慶長11年(1606)、江戸城拡張にあたり、氏子共々この地に移されました。
 日比谷神社は別名「さば稲荷」と呼ばれ、虫歯に苦しむ人は鯖を断って祈願すると霊験があると伝えられます。神様の加護により痛みが治ったら、鯖を奉納するならわしだとか。本当は旅人の無事祈願だったのが、いつの間にか歯の稲荷になってしまった・・・といういきさつが案内板に詳しく書かれています。
    B 塩竃神社

↑夏は虫除けスプレーを全身振りかけないと
  刺されすぎて入れません(笑)
  お賽銭箱のところに「30円おみくじ」があります
  元禄8年(1695)、現在の汐留貨物駅跡にあった大国・仙台伊達家上屋敷に、郷里の本社から勧請されました。本社は宮城県塩竃市にある塩竃神社です。幕末の安政3年(1856)に現在地に移転するとともに一般の参拝を受けるようになりました。本社と同じく安産の神として信仰を受けたのですが、境内地の処理に紛争があり、信徒の拡散などで地味になってしまったようです。

 刃傷事件の際、浅野と共に勅使饗応役を仰せつかっていた人物がもう一人いて、それがこの伊達家の支藩・伊予吉田三万石の伊達左京亮でした。また、浅野切腹の場となった田村家も伊達家の支藩にあたり、赤穂事件には少なからず伊達家との結びつきがあったことになります。
    C 浅野内匠頭切腹跡


↑間取り図から推測される実際の切腹場所付近
  「浅野内匠頭終焉之地」碑は、新橋四丁目の交差点脇に立っています。実は、実際の切腹場所はここから50bほど離れているんです。大体道を一本内側に入った辺り。→写真一番下
 ここにはかつて田村右京大夫の屋敷がありました。刃傷事件のその日、家の主・田村は奏者番役で、浅野の切腹は彼の屋敷の庭先で行われました。
 この「庭先での切腹」は大目付・庄田下総守の指示でしたが、五万石の大名に庭先切腹の仕打ちは如何なものかと抗議が寄せられ、とうとう庄田は大目付職を罷免されてしまいます。

 田村家が浅野を預かることになったのは、事件の日、田村右京大夫がたまたま奏者番として詰めていたこと、また浅野家との縁戚関係が無かったためであったといいます。
    D 愛宕神社


↑雨の日は超危険な急勾配
  都内23区内で最も高い場所にある神社です。愛宕神社への山頂に伸びる86段の階段は、男坂と言ってかなりの急勾配。(写真下)登るも下るもかなり足がすくみます・・・。今回は雨降りだったこともあり、行きは近くの坂道から、帰りは男坂の隣にある女坂をへっぴり腰で下りてきました。雨の日の男坂駈け下りは危険ですよ(笑)
 この坂はその昔、間垣平九郎という武士が男坂を馬で駈け上がり、山頂の梅の枝を折って将軍家光に献上し出世したという伝説から、「出世の階段」ともいわれています。男坂を上ると出世ができるということで、出世・勝運祈願かサラリーマンの参拝者も多いそうです。

 徳川家康創建と言われ、火の神(火産霊命)がまつられ、江戸っ子には火伏せの神様として信仰されていました。

ちなみに、愛宕山の右手に立つ大きなビルは、真言宗真福寺。かつて浅野家断絶後に、大石内蔵助が遠林寺祐海を介してこの寺の塔頭の和尚に浅野家再興のことを頼んだと言われています。
    E 興昭院
  興昭院には石造りの閻魔様がまつられています。江戸時代、閻魔像は地獄の支配者と恐れられるものではなく、その強い力で善人を苦しみから救ってくれる有り難い神様として親しまれていたようです。興昭院のそれは眼病に霊験あらたかとされ、願いが成就するとこんにゃくを礼に供えるならいがあることから「こんにゃく閻魔」と言われていました。

 閻魔さまが安置されているのは本堂左の茂みの中です。石畳に沿って進みましょう。ちょっと茂りすぎてるけど気にしない(笑)興昭院は日により、開門していないことがあります。
    F 栄閑院(猿寺)

↑杉田玄白の墓は本堂右手奥
  興昭院隣には栄閑院というお寺があります。俗称を猿寺というそうです。
 その昔猿回しに扮した泥棒がこの寺に逃げ込んだのですが、住職の説得で改心して諸国行脚の旅へ。残された猿は寺の人気者になったところに由来しています。

 また、本堂横には江戸時代中期の蘭方医で前野良沢と共に『解体新書』を刊行したことでも知られる杉田玄白の墓があります。

猿寺にちなみ、おさるさん→
    G 仙石伯耆守邸跡(現・日消ビル)
 現在日本消防会館になっている場所に、元禄時代、大目付・仙石伯耆守久尚の屋敷がありました。大目付は老中の下にあって、大名や旗本、役人の政務・行動を観察した役職です。
 元禄15年(1702)12月15日、討ち入りを果たし吉良邸から泉岳寺へ引き上げる途中、大石内蔵助は吉田忠左衛門と富森助右衛門を仙石邸に自首・事の次第を報告させています。(墓前報告を終えた後、全員が再び出頭)
 伯耆守は報告に現れた二人を厚く迎え、血だらけの装束のまま座敷に上げて話を聞いたといいます。以前ここには二人が足を洗ったという井戸が残されていましたが今はなく、井戸のあったことを示す水場記念碑が建てられています。
    H 金刀比羅宮

↑生憎工事中。。。
  「こんぴら、船船……」でお馴染みの金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県琴平町に本社があります。古くから航海安全の守り神として信仰を集めてきました。
 この地にはかつて、讃岐国丸亀藩京極家の江戸屋敷があり、藩主が邸内に金比羅大権現をまつったのが神社の起源です。いつしか金比羅大権現がこの京極家の危機を救ったという噂が評判になり、また「○に金」の神紋で、江戸では商売繁盛の神様として信仰されました。今も商売繁盛を祈願する人が多いようです。
    I 虎ノ門
 ここにはかつて城門がありました。虎の門は江戸城外堀にあった城門の一つですが、明治維新後に取り払われます。現在は地名や駅名にその名が残るのみですが、地下鉄出口に石碑が置かれているのはご存知でしたか?

 朝鮮人が虎を持ち込んだ際、門が小さくて通れなかったことから檻に合わせて作りなおしたとされ、そこから虎の門となったといわれています。

 以上、お疲れさまでした〜(・_・)(._.)



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