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オフ会(お江戸ウォーキング) 第一期企画 「忠臣蔵の世界」**

第4回 四十七人の軌跡---討ち入り引き上げルートを歩く


本日のお題 -------------------- 本日の道順
       本日のお題 --- today's theme
 元禄14年3月14日、何日もジメジメとした日が続いた春の日。

 江戸城では、例年恒例の勅使接待に追われていた。午の刻近くなって、突如城内に響き渡る声―刃傷でござる、刃傷でござる、と。御法度に禁じられた城内の抜刀。それを犯してまで、青年は何を恨んだのか。詮議の無いままの処分決定は何故だったのか。すべてが謎のまま青年は死に、青年に使えた二百数十の侍は路頭に迷う。一件散り散りになったかに見えた彼ら。

 一方、青年が命を賭しても殺めようとした老人は隠居し、表舞台から姿を消した。茶を好み、和歌を嗜み、騒がしい政局からも一切手を引いて過ごす日々。薄れゆく額の傷は、次第に誰の心からもあの忌まわしい一日の思い出を掠めさせていった。

 そして訪れるは、運命の翌年12月14日。

 さらば、「その日」まで  
 「赤穂城を明け渡す」と国家老大石内蔵助が決断を伝えた時、城下に残っていた藩士の数は半分に減っていた。その後の開城で一端は各地に散った浪士達。何の後ろ盾もなく不安な日々を過ごす彼らをなだめ、励まし、取りまとめた内蔵助の心中には、常に「御家再興」の四文字があった。亡き主の弟君・浅野大学の閉門を解き、どんな形でも再興を幕府に認めてもらうため、相当に気を揉んでいる様子は史実上も明らかである。山科に引き込んでからも、過激派を抑えるために江戸まで下向したこともあった。煮え切らぬようにしか見えないと詰め寄られたこともある。しかし要所要所、内蔵助は真意を的確に言葉にして表現した。

 一つ、浅野大学さまの閉門解除と御家再興
 二つ、吉良にも相応の処分が下ること

 時に「うき様」などとあだ名され放蕩者と呼ばれても、彼は決してその心を曲げてはいなかった。そしてとうとう、穏健派と言われていた彼ですら、討ち入りを決意せざるを得ない日がやってきたのである。




 決断の時  
 浅野の死から1年以上も経った、翌元禄15年7月18日。幕府より正式な沙汰が下った。

 「閉門解除、これよりのちはその身柄を広島藩主浅野家宗主・浅野安芸守へお預け」

 ――すなわち、大学は浪人の身のまま宗家が監視するようにとの達しであり、御家再興は叶わないことを意味していた。もはや、この上は・・・覚悟していたのか、「そう」と決まってからの行動は早かった。内蔵助は同月28日午前9時より京都丸山の安養寺塔頭で、有名な丸山会議を開いている。その場に出席した同志は19名。その場に集った時点で既に討ち入りは前提となっており、子細やおおまかな決行時期について話し合われたと思われる。その結果は江戸に長く潜伏していた過激派にも伝えられたが、一方で各地に散った多数の同志に対してはその選抜が行われた。

 それというのも、浅野大学の御処分以前までに、浅野家再興に望みをかけて盟約を結んでいた同志が120人を越えていたが、真っ先に討ち入り決定を知らせてしまうと情報が漏れる可能性があったからだ。そこで大高源五と貝賀弥左衛門の二人に、京阪・赤穂に散在した浪士仲間を訪ねさせ、「浅野大学さまの御家再興叶わず、もはや不必要なもの」として盟約を結んだ際の誓紙を返却させた。これを不服とし「もはや討ち入りあるのみ」と突き返してきた者のみ、同志として計画を打ち明けるというものである。これには二十日ほどを要したが、結果55名が選抜された。内蔵助が期待していた浪士のうちにも、脱落者が何人かいたという結果であったという。

 8月から10月にかけて、京阪盟約者は次々に下向を始める。散々抑止を求められていた江戸の強硬派にせめてもの誠意を見せるためか、この頃内蔵助は長子・主税を彼らに伴わせて江戸にやっている。主税は近江の郷士・垣見左内と称して土地訴訟問題で下向してきた者として日本橋近くの公事宿に泊まった。
 主税の後を追うように内蔵助も京を出立する。しかし一気に江戸市中には入らず、21日鎌倉に逗留した後、25日には川崎、そして26日に平間村に到着した。同村はかつて江戸の赤穂藩邸に馬草を納めていた農民・軽部五兵衛の住まいがあり、七月頃から富森助右衛門が敷地内に簡易の住宅を建て住居し、内蔵助の指示拠点として用意されていた。今まで最終的に討ち入りの可能性を示唆しながらも一年以上自制を促してきた内蔵助がようやく関東に下り直接指示をするのだから、江戸に潜む同志たちはどれだけ活気づいたことだろう。最重要課題であった吉良邸内の様子も、毛利小平太の侵入成功や新版の絵図面が手に入ったことでより成功に望みが繋がった。人脈も活用して吉良の情報をできるだけ入手した。

 12月2日、頼母講の集まりと称して全員を深川に召集。15項目の「人々心覚」が示され、この時出発は6日午前4時と決まった。が、5日に将軍・綱吉が柳沢吉保邸に下向することが分かり、市中警護が厳しくなることも予想されたため急遽延期となった。次の実行予定を11日と定めるも、またも将軍の下向で延期。二度の中止を経て最終的に決まったのは14日であった。この日は吉良邸で茶会があり、吉良在宅が確実だったからである。13日は、朝から雪がしんしんと降り積んでいた。翌日に控えた討ち入り決行を前に最期の宴が催された。皆は最後の酒に酔いしれ、夜が更けていった。




 雪の舞う夜を越えて  
 14日朝、降り続いていた雪がやんだ。

 内蔵助は1枚の書状を今一度開いて眺めていた。討ち入りの口上書として前日に制作されたそれには、全部で48名の名が書かれてある。誓紙返却でカマをかけ、選抜された55名からさらに人数は減った。そしてさらにうち一名、毛利小平太という名前に内蔵助は墨を入れる。スッと引かれた縦一本線。この直前の脱盟を彼は残念に思った。吉良邸捜索で邸内にまで入り込んで働いてくれた男だ。脱盟の理由は公にはされていないが、大石宛の書状を残して消えたといわれる。

 討ち入り前の集合場所は、本所林町五丁目の堀部安兵衛宅と徳右衛門町二丁目の杉野十平次宅で、集合時間は高齢者午後4時、それ以外は午後8時ということになっていたが、皆気が急くのか夕日が沈む前から姿を見せていた。
 親子・兄弟は討ち死にしてもいずれかは生き残るように表と裏に分けられ、堀部宅には表門組23名、杉野宅には裏門組24名が集い、かねてより密かに準備を進めていた装束に着替え武器を携える。装束は鉢鉄入りの頭巾を被り、鎖帷子を着込んで揃いの黒小袖を羽織っていた。袖口は歌舞伎にあるだんだら模様ではなく、白い布が袖口に付いていた。敵味方の区別が付くようにである。

 隊列を整え出陣したのは七ッ時(午前4時40分頃)。溶けかけの雪が凍って足元はザクザクと音を立てた。15分ほどして吉良邸に到着する。表門・裏門に別れると、まず表門の一行が火事を装い「火が上がっている」と口々に叫び邸内侵入を目論む。無論門番はこれを拒むので、実力行使で門脇に縄梯子を架けて入り門番を斬り捨て、内側から開門する。全員が邸内にはいると、討ち入り大義名分の向上書が突き立てられた。同じ頃、裏門は外から門を木槌で打ち破る。1時間に渡る戦闘の始まりである。

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 邸の主の老翁は、前日の茶会の疲れから寝所で深い眠りに着いていた。
 登城して将軍の顔色を窺い、命を受けて老体にむち打ち上洛する、きつい政務仕事より、引退してからの方がよほど気楽でいい・・・翁はこの頃そんなことを思うようになっていた。無論、額の傷跡を忘れている訳ではない。何の恨みか覚えはなくとも「遺恨である」と殺されそうになった経験は、そうそうかき消せる思い出でもない。ましてあの青年の形相といったら・・・暫くは自宅の物陰すら物騒に思えてしまうほどだった。兎にも、養子に出した息子の三之助(米沢藩主・上杉綱憲)が国元に来てはどうかと誘ってきているし、孫の義周もまだ若いが跡取りとしてしっかりしてきている。知己の人々と離れるのは寂しいが江戸は何かと騒がしいから、田舎の生活も悪くないだろうと考え始めた12月。夢には米沢での隠居生活を思い描いていたのだろうか。

 「申し上げます、どうか御起床を!」

 まだ夜明けには早いというのに、家臣の一人が寝所前の廊下へ、怒鳴り込むかの如く滑りこんできた。

「どうしたのだ」
「赤穂の浪人が押し入っております、お逃げ下さいませ」

 一瞬心の臓が冷たく、大きく高鳴った。あの事件の折に切腹した青年の遺臣が仇討ちに来るのではと巷に噂されていたことは知っていた。しかしまさか、そのようなことが本当に起こるとは。いましも信じがたいことだった。瞬時は呆然とただ飛び起きたままであったが、遠く微かに怒号のような男たちの声が聞こえると、翁は夜着のままよろよろと寝所を抜け出した。庭に積もった残り雪が、やけに冷たく白く輝いていた。


 炭小屋の墨で寒さに足を擦り合わせるうち、かじかむのは寒さか恐怖のせいか分からなくなってくる。小屋の入り口には数人の護衛が付いているが、もはや見つかるのは時間の問題だろう。真っ先に浮かんだのは、刃傷事件以降折り合いが悪くなり実家に戻ったままの妻・富子の顔。彼女の幼名・三姫にちなみ息子に三之助と名付けたのはもう随分と昔のことだ。理由はともあれ、妻が不在だったことだけは不幸中の幸い、と思った。
 もはや覚悟は、決まっていたのかもしれない。やがて小屋の外に、人の気配を感じた。翁――62歳の吉良上野介義央は、懐に入っていた三つの守り袋をぎゅっと握りしめた。不思議と、震えが止まった。







 厳かなる慶賀の日に起こった、某大名による某高家殺害未遂に端を発する一連のできごとは、語り継がれることその後三百有余年と聞く。


 〈了〉




       本日の道順 --- today's course
JR両国駅
 ↓
@吉良上野介邸
 ↓
A回向院
 ↓
B両国橋・大高源吾の句碑
 ↓
C一之橋
 ↓
D江島杉山神社
 ↓
E新大橋・御船蔵跡
 ↓
隅田川テラス沿いに南下
 ↓
F万年橋・芭蕉稲荷神社
 ↓
G赤穂義士休息の地の碑
 ↓
H永代橋
 ↓
I霊厳島内--豊海橋、他
 ↓
J堀部安兵衛武庸之碑
 ↓
K稲荷橋
 ↓
L鉄砲州稲荷神社
 ↓
Mヘンリー・フォールズ住居跡
 ↓
N蘭学事始翻訳・
  慶應義塾開塾の地
  浅野内匠頭邸跡
  (現・聖路加病院)
 ↓
O築地本願寺
 ↓
P歌舞伎座
 ↓
都営浅草線 東銀座駅
 ↓
(移動)
 ↓
都営浅草線 泉岳寺駅
 ↓
Q泉岳寺
☆ 今回ご参加の皆様と --- 泉岳寺にて撮影 ☆
 4ヶ月ぶりに復活したお江戸ウォーキングです。お忙しい中参加して頂いた皆様、本当に感謝だけでは言い尽くせません。また皆さんとお会いできたのが何よりも嬉しかったです。

 連日冬日でしたが、当日はお天気にも恵まれ、少し長い距離を何とか歩くことが出来ました。懇親会は焼き肉でした〜ちょっとほろ酔いになってしまいましたが、楽しい時間、有り難うございました。
    @ 吉良上野介邸(本所松坂町公園)

↑当時を忍んで「うろこ壁」が再現されています

↑首洗いの井戸

↑吉良側の殉死者の慰霊墓碑もあります
 現在残っているのは、昭和9年に地元有志が一画を買い取り公園として区に寄贈したもので、横の木戸から中に入ることができます。

 吉良は前年8月上旬に、それまで住んでいた呉服橋の屋敷からの移転を願い出、12日には現在の両国にあった旗本・松平登之介の屋敷を拝領してこれを改築、12月に転居しました。この移転には、呉服橋で吉良邸の西隣に居を構えていた富田藩主・蜂須賀飛騨守の要請があったとも言われています。
 というのも、「赤穂の浪人の仇討ちが噂されるので万が一に備え警備を固めろ」という命が下っていたのですが、その対応に神経をすり減らして辟易してしまったためだとか。真偽のほどは定かではありません。
 屋敷の移った先が両国橋の向こう、すなわち江戸城外堀より外であったことから、幕府が吉良を見限ったようにも見え、「赤穂浪士の討ち入りも近いのではないか」という憶測が江戸市中では広まりました。

 元禄15年12月14日のその日、深夜七ッ時(15日未明午前5時近くか)火消し装束の赤穂浪士達が門前に現れます。不審がった門番が開門を拒むので、浪士達は表門23人・裏門24人の二手に別れて強行突入に踏み切った。8,400uを誇った吉良邸内はあまりに広く部屋数も多いため上野介捜索には難儀しました。1時間の決闘ののち炭小屋に潜んでいた怪しい老人を発見した間十次郎と武林唯七がこれを討ち取り、その額に傷があることから門番に確認をさせ、上野介本人と確認。
 一行は午後6時の夜明け寸前に吉良邸を出発し、一路浅野家菩提寺・高輪泉岳寺へ向かいました。


** 敷地内にはこの他に稲荷さまや吉良の供養塔、
   解説のパネルなどがあります
    A 回向院

↑昔は隣の青い建物も敷地内だったそうです

↑鼠小僧次郎吉の墓

 明暦3年(1657)の大火の死者のうち、無縁仏を回向するために建立されました。正式名を諸宗山無縁寺回向院といいます。

 かつてこの寺では勧進相撲が行われたことから寺の近くには相撲部屋が多く、境内には力士が奉納した「力塚」があります。
 また歌舞伎演目でも有名な鼠小僧次郎吉の墓は、墓石を削って持ち還ると金運が上がるということで丸く削られてしまっていて、現在は御前立ち(ダミー)を削るようになっています。鼠小僧次郎吉は義賊ともてはやされていますが、実際は盗んだ3000両もの大金をほとんど「呑む・打つ・買う」に使ってしまったということです。天保3年(1832)年お縄になり、磔にされました。
 その他、洒落本作家・山東京伝の墓もここにあります。現在はペット供養なども行っているようです。

 討ち入りを終えた赤穂浪士は、当初この寺で休息し隊を整え、吉良・上杉方の追っ手が来た時に備えようとしましたが、関わりを恐れた住職が入山を拒否したため、やむなく浪士隊は両国橋の方へ歩き出しました。


↑力士が奉納した「力塚」
    B 両国橋・大高源吾の句碑


↑現在工事中につき石碑は橋の脇に移動しています。
  右が大高源五の句碑です


↑同じく工事中で、現在見ることはできませんが
  陸軍大臣・大山巌書の表忠碑です



 江戸時代初期は江戸防衛のため、千住大橋以外、隅田川に橋を架けることは禁止されていました。しかし、明暦の大火で橋がないため立ち往生した多くの人々が焼死あるいは水死したことから幕府も必要性を感じ、万治2年(1659)年初めて橋が架けられます。
 長さは96間(およそ175m)、一年がかりで完成したのですが、洪水のたびに壊れたり流されたりして修復・再建を繰り返すため、「金食い橋」とも呼ばれたそうです。

 武蔵と下総の両国を結ぶため、「両国橋」の名が付いていますが、元は単に「大橋」と呼んでいました。下流に新大橋が架かったので紛らわしい名を避け「両国橋」で定着化したようです。橋の両側は広場のようになっていて、見世物小屋・芝居小屋・出店が軒を並べ、江戸随一のに賑わいを見せていました。

 現在工事が行われていて分かりにくいのですが、橋の横には小さな歌碑が立っています。「日之恩や 忽ちくだく 厚氷」とあり銘はありませんが、浪士の一人・大高源五の句碑です。源五は俳諧に長け、号を子葉と名乗って江戸では松尾芭蕉の門人・宝井其角と交流がありました。本懐を遂げた後に源五に会った其角が「我が雪と おもへはかろし 笠のうえ」と読むと、源五が前述の句を返したといいます。

 他に、現在見ることができませんが、陸軍大将・大山巌が書した「表忠碑」が立っている場所でもあります。
 現在の橋は関東大震災の後、昭和七年に完成しました。

 赤穂浪士たちは、ここで両国橋東詰を左折して隅田川沿いに南下していきます。なぜ両国橋を渡らなかったかといえば、夜明けと共に明けた翌15日は、月例の大名・旗本総登城の日で、その行列と鉢合うことを避けるためでした。
    C 一之橋
 両国橋手前を隅田川沿いに南下していくと、支流の竪川に架かる一之橋を渡ります。旧名・一ッ目之橋、現・一之橋です。かつては、隅田川河口に近い方から一ッ目之橋・二ッ目之橋・三ッ目之橋と名付けられていました。
 近くには神崎与五郎・前川伊助が吉良邸の情報を探るために米屋を商いしていた相生町や、討ち入り当日の集合場所となった堀部安兵衛邸・杉野十平次邸がありました。

    D 江島杉山神社
 一之橋を渡って少しいったところで、ちょっと寄り道。

 江島杉山神社は元の名を「一ッ目弁天社」と言いました。元禄6年(1693)、将軍綱吉の命で相州江ノ島の江島神社の御分霊を祀ったのが起こりで、元々三柱を祭祀としていましたが、明治以降新たに一柱合祀して江島神社と改称しました。
 境内の脇には現在の東京には珍しい石室があり、三体の石像が祀られています。弁才天は頭が老翁、体が蛇の珍しい造りです。


    E 新大橋・御船蔵跡

↑新大橋

↑御船蔵跡の碑


  新大橋は、江島杉山神社ができたのと同じ元禄6年、隅田川三番目の橋として建設されました。名の由来は上流の両国橋が大橋と呼ばれていたことにちなみ、建設当初は現在より200m下流にありましたが、明治45年(1912)鉄橋として現在地に架け替えられました。その後昭和52年現在の橋に変わりましたが、明治期の橋は明治の面影を伝える資料として愛知県の明治村に移されています。当時の支柱の一本は現在新大橋横に立っているので見ることができます。

 御船蔵は幕府の艦船を保管する倉庫で、新大橋と両国橋の間の隅田川沿いに大小14の棟が並んでいました。

    ** 隅田川テラス
 実際に赤穂浪士が歩いたルートは一本陸地側の道なのですが、この日は天気が良かったので隅田川沿いの「隅田川テラス」を南に下りました。
 屋台船の行き交う光景や高層ビル、微かな潮の香りなど、散歩にはもってこいの道です。犬の散歩をしている方とよく行き会います。

    F 万年橋・芭蕉稲荷神社

↑芭蕉稲荷神社

↑万年橋
 延宝8年(1680)冬、当時「桃青」と号していた36歳の芭蕉は、門人・杉山杉風の紹介でここ深川の庵に移り住みました。当時深川はまだ田園風景の残る閑静な土地で、穏やかな気風を芭蕉は好み、「古池や 蛙飛びこむ 水の音」など、著名な俳句をここで詠んだといわれています。現在は稲荷神社になっており、近くには芭蕉庵史跡展望庭園や芭蕉記念館があります。

 支流・小名木川の合流地点に架かっている橋を万年橋といいます。架橋年代は定かではありませんが、古い橋の一つだといいます。江戸時代、この橋の北岸に小名木川を航行する船を取り締まる通船改めの番所が置かれていましたが、寛文年間(1661〜73)に中川口に移されたため、「元番所の橋」とも呼ばれました。
 船の運航のために橋が高く架けられ、ここからの富士山の眺めは素晴らしいことで有名だったようです。橋の独特のフォルムと景色から、安藤広重や葛飾北斎の浮世絵題材にもなっています。

    G 赤穂義士休息の地の碑
 当時永代橋の手前には、乳熊屋(ちくまや)という味噌屋がありました。店主は前述の歌碑の大高源五と俳句仲間で、永代橋に差し掛かった浪士達を見ると店内に招き入れ、甘酒を振る舞ったと言われています。
 現在その場所は「ちくまビル」になっていて、通りに面して祈念碑が建てられています。

    H 永代橋

 元禄11年(1698)に五代将軍綱吉の50歳の慶賀に、上野寛永寺の余材を投じて作られました。

 江戸一の大橋として有名で、船の往来のために高く架けられていました。文化4年には深川富岡八幡社の大祭で人々が殺到し、橋が折れて1000人以上の死者・行方不明者を出す事故も起こっています。現在の橋は大正15(1926)に架橋されたものです。

 赤穂浪士一行は、当時真新しかったこの永代橋を通り、対岸へ渡りました。江戸時代、永代橋は今より少し上流に架けられていたので、実際は次に巡る豊海橋を渡って霊厳島に入っています。

    I 霊厳島内 --- 豊海橋、他
 浪士達が霊厳島をどのように巡ったのかははっきりと分かっていませんが、この地域に福井藩松平家の中屋敷があり、それを避ける形で歩いたのではないかと考えられています。

【豊海橋】
 この橋も元禄11年(1698)に初めて架けられ、その後幾度となく架け替えられているものです。
 現在の橋は、関東大震災後の復興事業として昭和2年に建設されました。この梯子を倒したような独特の造りは、考案者の名を取り、フィーレンデール橋タイプと呼ばれています。永代橋と均衡が取れるようにという考えからこの形が選ばれました。

    J 堀部安兵衛武庸之碑
 「高田馬場の仇討ち」に助太刀したことで堀部弥兵衛の目にとまり、婿養子となった剣豪・堀部安兵衛をたたえる碑です。安兵衛が一時期この付近にあった京橋水谷町に住んでいたことにちなんで建てられました。 

    K 稲荷橋
 霊厳島を抜けた一行は、高橋、稲荷橋を渡りました。現在稲荷橋の辺りの川は埋め立てられており、小さな碑が残るのみとなっています。

 稲荷橋の南側は鉄砲州と呼ばれた地域で、浅野家の上屋敷もこの地域にありました。赤穂浪士たちはさらに南下し、旧屋敷に向かいます。この途中、彼らは豆腐・菱屋に立ち寄り、店主に湯漬けを振る舞われました。

    L 鉄砲州稲荷神社



↑鳥居の向こうの岩の塊が富士山から持ってきた溶岩
 江戸時代は海上守護神として稲荷橋の南にありましたが、明治になって現在の地に移ります。
 西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士信仰の場としていました。この富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なもので、赤穂事件から70年ほど後の安永年間(1772〜81)に築かれました。当時はこの頂上から富士を眺望することができたということですが、現在は登ってはいけません。近くまで寄って見ることはできます。

    M ヘンリー・フォールズ住居跡

↑植え込みの中に功績をたたえた石碑があります
 現在聖路加国際病院がある一帯は、明治時代に築地居留地と呼ばれる外国人の町が広がっていました。
 当時この地に住んでいたイギリス人宣教師・フォールズは、日本の拇印の習慣などにヒントを得て指紋研究に取り組み、その後の犯罪捜査に功績を残しています。

    N 蘭学事始翻訳・慶應義塾開塾の地・浅野内匠頭邸跡


↑上が蘭学事始の祈念碑、下が慶應義塾開塾の地碑です




** この辺りには、他に女子学院開校の地、芥川龍之介
   誕生の地など、歴史的な場所が多く集まっています。
 浅野家上屋敷のあったこの辺りは、約8900坪という広大な土地で、築地川に面して建っていたと言われています。
 お取り潰しになった後、この地はいくつかに分けられて大名の屋敷になりました。その一つが、豊前中津藩奥平家の中屋敷です。安永3年(1774)年藩医の前野良沢が、医師・杉田玄白らと共に『解体新書』を翻訳・完成し、幕末安政5(1858)年には福沢諭吉が藩邸内に慶応義塾の前身となる蘭学塾を開いています。

 討ち入り当時はすでにここは没収されていましたが、赤穂浪士達は主の旧屋敷前を通って泉岳寺へ向かったのでした。

    O築地本願寺
 京都の西本願寺別院にあたるこの寺は、かつて西本願寺の名で浅草にありましたが、明暦の大火で焼失。佃島の住民を始めとする多くの信者が協力して築地に再建を果たしたといいます。
 当時は12,000坪の土地に堂塔伽藍が配置されていました。現在はインド寺院風の本堂が建っていますが、これは東洋建築家の伊東忠太設計で昭和9年の建立です。

 境内には大きさもまばらな石碑が数個並んでいます。江戸後期の画家・酒井抱一の墓や佃島を築いたと言われる森孫右衛門の供養塔などですが、中に赤穂浪士・間新六の供養塔があります。
 新六は刃傷事件当時は浪人中でしたが、事件を知って盟約参加を志願。父喜兵衛、兄十次郎と共に討ち入りに参加しました。切腹時24歳。当時切腹は既に形式化し、実際に腹を切ることはなかったのですが、新六は実際に一文字に引き裂いて果てたということです。彼の死後、姉婿の中堂又助が遺体を引き取り菩提寺の本願寺に埋葬しました。昭和になって、泉岳寺に改葬されています。

    P 歌舞伎座
 現在の歌舞伎座付近には、浅野内匠頭の実弟で、浪士達が「御家再興」の最後の望みを託していた浅野大学宅がありました。
 討ち入り当時、大学は既にこの地を去っており、引き上げていく彼らを見ることはありませんでした。
    Q 泉岳寺

↑本堂

↑首荒いの井戸

↑血染めの石

↑四十六士と主の眠る廟所

 泉岳寺は、慶長17年(1612)門庵宗関和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田の地に創立した曹洞宗の寺でしたが、寛永の大火によって焼失。この地に再建されました。移転には浅野家も協力し、以後菩提寺となっています。

 本懐を遂げた四十七士はその後仙石伯耆守邸に移され、さらに肥後熊本藩細川家(大石内蔵助ら17名)、伊代松山藩松平家(大石主税ら10名)、長門府中藩毛利家(間新六ら10名)、三河岡崎藩水野家(神崎与五郎ら9名)にお預けとなりました。
 処分決定には時間を要し、評定所は世間の同情も厚いため助命を主張、荻生徂徠・柳沢吉保は武士の本懐として切腹を主張します。綱吉も一時は助命を迷ったが、結局全員切腹が決定。2月4日午後、四家一斉の切腹が行われました。その後親族が引き取りを申し出た間新六以外の45人が泉岳寺に埋葬されました。昭和になって間の墓も改葬され、生き残った寺坂の供養塔も建てられています。

 門前には大石内蔵助像、四十七士廟所に続く参道には首洗いの井戸や血染めの石(田村右京大夫邸の切腹の場にあり血が飛んだと伝わる)があります。廟所には浅野内匠頭や四十七士の他、妻・阿久里(瑤泉院)の墓などがあり、一人生き残り天寿を全うした義士・寺坂吉右衛門の供養塔(墓は麻布曹溪寺)。
 また、切腹した萱野三平の墓ではないかとも言われる「刃道喜剣信士」と刻まれた四十八期目の墓もあります。忠臣蔵作品では薩摩藩士・村上喜剣として登場しますが、あくまでもフィクションの人物です。


 以上、お疲れさまでした〜(・_・)(._.)



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